NHKエンタープライズ iHistory(アイ・ヒストリー)

NHKエンタープライズ iHistory(アイ・ヒストリー)

100%手づくりのフェス「東京JAZZ」
フェスの一体感がたまらない!

「音楽フェスに、あんなに熱に浮かされたような楽しさがあるとは、私も、参加したスタッフも、誰も想像していませんでした。アーティストは本当に楽しそうに演奏しているし、お客さんも心から楽しんでいる。浮き浮きするようなリズムのラテンバンドが出た時は、地元のおじちゃん、おばちゃんが、リズムに乗って客席で踊っている! 一体感がすごいんです。いつまでも終わってほしくない時間がそこにありました。あのフェスティバルが『東京JAZZ』の原点ですね。」

今年(2015年)で14回を数える「東京JAZZ」で、出演アーティストのブッキング、プログラム構成、総合演出を手がけるNEP国際事業センター、エグゼクティブ・プロデューサー 八島敦子が自分たちの原点だと考えるジャズ・フェスティバルがある。

「オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティバル」。財団法人いばらき文化振興財団、財団法人ひたちなか市文化・スポーツ振興公社が主催し1997年にスタート。日野皓正グループや、秋吉敏子トリオ、マイケル・ブレッカー等の大物が出演するなど、当時としては国内でも最大級のジャズ・フェスティバルのひとつだった。
会場は海に面した国営ひたち海浜公園。全国からジャズを愛する人たちがやってくる。雄大な太平洋をバックにした開放的な雰囲気の中、屋外でビールを飲みながら音楽に酔いしれ、夕刻になれば暮れなずむ海と空がジャズの調べに色合いを添える。ジャズファンには至福の時だった。

東京JAZZNEPが制作に携わった、2000年オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティバルのポスター

学生時代からジャズファンだった八島は、入社2年目のある日、このフェスティバルのポスターを会社で見かけた。フェスティバルはNHKでの番組収録が予定されていた。当時八島が所属する部署のエグゼクティブ・プロデューサーだった石川猛が以前NHK水戸放送局長だった関係もあって、社内にポスターが貼ってあったのだ。この音楽フェスに興味を示した八島に、石川は収録業務スタッフへの道を開いてくれた。
「私が行きたいとお願いしたら、石川さんが番組収録の担当プロデューサーにかけあってくれて、通訳の仕事をさせてもらいました。現場では、うろうろしていただけで、あまり役にたたなかったような気もしますが、それでも、フェスティバルの現場を生身で体験できて楽しかった!」(八島)

翌2000年、NEPはこのフェスティバルの企画制作の一部を委託され、八島が所属し、イベントやシンポジウムの企画制作を行っていた企画1部が担当することになった。しかし石川も八島も、さらに部全体を見回しても、このような規模の音楽フェスティバルの制作は初めてだった。
「やること全てが初めてでした。たいへんだったけど、でもすっごく楽しかった! アーティストを決めて、出演料の交渉をして、チケットを販売して、チラシのデザインを皆で決めて・・・、全て楽しかった。なんであんなに楽しかったのかな? なにもかもが初めてで新鮮だったこと、皆が夢のように描いていたものが徐々にひとつの形になっていく、そんなあれやこれやが面白かったのだと思います。」
こうして八島を始め、NEP企画1部のスタッフは「ジャズフェス」の魅力に取りつかれる。

しかしこのフェスティバルの開催は2000年が最後となってしまった。
「こんな素敵なジャズフェスが終わってしまうのは惜しい、と思いました。当時、制作に関わっていたNEPのスタッフや外部のスタッフも皆、同じ気持ちでした。自分たちの手で、東京で新しいジャズフェスを立ち上げようという気持ちが強くなりました。」(八島)
こうしてNEP独自のジャズ・フェスティバル立ち上げへの挑戦が始まった。
NEPの役員になった石川の陣頭指揮のもと、イベント経験者やエンターテインメント番組の経験者、協賛営業の担当者たち、そして八島は事務局業務全般というフォーメーションでフェスティバルづくりがスタートした。ジャズフェスの立ち上げは未経験というNEP企画1部のメンバーは、素人ながらも精一杯の体制で、実現を目指した。石川は八島たちスタッフにいった。「責任は全部俺が取る。お前たちはがんばれ。」
「石川さんがいなかったら、『東京JAZZ』は実現しなかったと思います。」(八島)

素人が一から始めた「東京JAZZ」
東京JAZZ東京スタジアムに置かれた「東京JAZZ2002」の看板

フェスティバルの名前は、「東京JAZZ」と決めた。
「名前は、当初皆がアイデアを出して考えたのですが、どれもピンとこない。そんな中、先の音楽フェスの番組ディレクターが、『シンプルなほうがいいよね、例えば、東京でやるから東京ジャズとか』といった言葉に一同大賛成! 『東京じゃず』『トーキョージャズ』など皆で大いに議論し、一番座りがいい、『東京JAZZ』となりました」と八島は振り返る。

八島たちは、早速企画作りに取りかかった。コンセプトは“国境を越えて、世代を超えて”。
「もともとジャズはアフリカの音楽がアメリカに渡ったところから始まり、各地の様々な音楽的、文化的要素が加わってできた音楽です。東京という国際的な都市の魅力を加えることで、国境、世代などを越えてより楽しめるものにすることが大切だと思いました。」

「オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティバル」での経験はたったの1年。一から新しいフェスティバルを立ち上げようという八島たちの前には、アーティストのブッキング、会場の確保、協賛のお願い、運営体制の構築、チケット販売など多くの難問があった。
「社内にはノウハウが全くありませんでした。『オーシャンブルー・ジャズ・フェスティバル』でも協力してくれたイベント制作会社の方たちや、新たに見つけ出した外部の専門家の方々に教えてもらいながら少しずつ準備していきました。」(八島)

難関だったブッキングは、ひとつの幸運がきっかけで歯車が回り始めた。「オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティバル」の演出をしていたプロデューサーが、ジャズ・ピアニストの巨匠ハービー・ハンコックと親しくしているという情報があった。
八島たちは、その人物を通してハービーに依頼した。なんとハービーは、「東京JAZZ」への出演だけでなく、音楽プロデューサーとしてアーティストへの声がけも引き受けてくれた。思いがけず得た強い味方、巨匠ハービー・ハンコックが加わり、準備作業は大きく前進し始めた。

東京JAZZ「東京JAZZ2002」のホームページに掲載されたハービー・ハンコックのメッセージとサイン

会場は、多目的スタジアムとして建設されたばかりの、東京都調布市の東京スタジアム(現在の味の素スタジアム)に決まった。コンサートホールではなく、「オーシャン・ブルー・ジャズ・フェスティバル」のように、野外に近い環境で広々と楽しんでもらいたいと考えたからだ。

一方、社内ではチケットの売れ行きによっては赤字のリスクがある事業を主催することに、難色を示す声も多かった。
八島はいう。「それまで私はロボコンも担当していましたが、ロボコンに次ぐ文化事業をやろうという声が、社内にはありました。そこで、NEPの新たな文化事業として『東京JAZZ』をやろうと、先の石川さんが奔走し、会社を説得してくれました。」

企業への協賛依頼にも取り組んだ。
「企画書を準備して、会社四季報を開いて、業種別に上から順番に電話をかけたこともあります。100社くらい連絡したと思います。ほとんどが『企画書を送ってください』と答えてくださるのですが、その後はなしのつぶて…。でもお話を聞いてくださる企業の方々もいらっしゃいました。」
実際にお願いに行っても、初めてのジャズ・フェスティバルゆえの厳しさが八島たちを襲う。
「初めてなので知名度がない。出資側から見ると協賛メリットがあまりにもなかったんですね。はっきりいえる具体的なメリットは、会場、チラシ、ポスターに社名が出ますよ! ぐらい。そんな中、『一緒にこの新しい文化イベントを育ててください』と、文化発信の社会的意義を訴えました。」
奮闘の結果、特別協賛に2社、協賛に7社が手を上げてくれた。「東京から文化を発信しよう」という八島たちの熱意が通じたのだ。

東京JAZZ2002年第1回、寺井 尚子 + coba :東京JAZZ TAKE OFF SESSIONより

迎えた2002年8月24日午後3時、快晴の東京スタジアムの特設ステージから、寺井尚子の奏でるジャズ・バイオリンの音が響き、熱暑の空気を切り裂く。八島たちが2年間準備を続けた「東京JAZZ2002」が幕を開けたのだ。ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、マイケル・ブレッカーなど世界的な巨匠が繰り広げる見事なステージに、会場に詰めかけた人は歓声を挙げる。来場者は2日間で延べ4万人を数えた。

八島は当時の喧噪を振り返る。「初めて自分たちが主催するジャズ・フェスティバルだったのですが、やることがたくさんありすぎて『緊張』とか『武者震い』とかを感じる暇すらありませんでした。アーティストがちゃんと到着するか、ケータリングの心配、暑さ対策、雨の心配、ごみ処理、騒音問題などに気を取られているうちに、本番が始まってしまいました。
ああ、フェスティバルが始まったんだ! と初めて思えたのは、京王線の飛田給の駅からスタジアムに向かって、お客さんがわーっと歩いてくるのを見た時です。あぁ、始まったんだぁ…、って。
フェスが終わってすべてが撤収され、スタジアムがいつもの姿に戻った時は、すぐに会場の広いサッカースタジアムの芝生を、ゴミが落ちていないか、天然芝が傷ついていないか、皆でくまなくチェックしました。すべてが終わった…、という感慨に浸っている余裕もなかったですね。」

一方、ステージのすばらしさには、八島たちは大きな感動を覚えた。
「印象的だったのは、ハービーの圧倒的な存在感と『進取の精神』。チャレンジが本当に好きでどんどん新しいサウンドを取り入れていくんです。音楽シーンをひっぱり続ける巨匠の底力に間近で圧倒されました。
そしてブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのボーカリスト、オマーラの強烈な色気。当時70歳に近かったはずの彼女は、現在も大活躍中のロベルト・フォンセカという20代のピアニストと掛け合いをするんですが、これがまるで本当に恋人同士の掛け合いのように艶っぽかったこと!」

コンテンツは自分たちで作ろう

「東京JAZZ」を立ち上げるにあたって、八島は海外のジャズフェスの視察も行っていた。フランスではパリ、ビエンヌ、スイスのモントルー、デンマークのコペンハーゲンなど、著名なジャズフェスに八島は1人、つてもないまま強行スケジュールで飛び込んでいった。
「直接、フェスのプロデューサーの扉をコンコンとノックして、東京でフェスをやろうと思っているのですが…、と訪ねたのです。先方も怪訝だったと思いますが、ステージ裏を見せてくれたり、いろいろ教えてくれました。私自身も、プログラム片手に見て回って、ああ、こんな風に街を周遊するステージも素敵だな、会議場みたいなところでセッションを聴いても楽しいんだなと、新しい体験をしました。
そこで自分の流儀ですがジャズフェスの分類を始めてみて、『東京JAZZ』をそこにどうはめていくか、今後どうしたいかを自分なりに考えていきました。」

八島たちは徐々に「東京JAZZ」を自分たちのフェスティバルに育てていった。そして「東京JAZZ」にとって大きなターニングポイントは、5回目の2006年に訪れる。八島の胸の内には、海外のジャズフェス視察の時に見た、音楽があふれる街の風景があった。
「4回やってみていろいろと試行錯誤を繰り返し、この『東京JAZZ』を文化事業としてより浸透させるにはどうすればよいか、を考えるようになりました。ヨーロッパで見たフェスでは、ホール周辺の商店街や広場、街角などに音楽があふれ、街ぐるみでフェスが展開されていました。『東京JAZZ』をそういうフェスにしたいという思いから、この年から、東京国際フォーラムを中心とする丸の内地区で開催しようと考えました。ホールだけでなく、東京国際フォーラムの地上広場でもライブやイベントを行い、丸の内のまちづくり協議会などとも連携して周辺では関連の音楽イベントを多数企画しました。

この年の「東京JAZZ」にはもう一つ大きな転機があった。これまでの音楽プロデューサー制をいったん卒業することにしたのだ。それは同時に、アーティストのブッキングから総合演出まで、100パーセント自分たちで行うことを意味した。
海外のジャズフェスでは、演出プロデューサー(ARTISTIC DIRECTOR)が一括してブッキングやプログラム構成を手がける。八島たちは、4年の歳月を経て、ようやく、このARTISTIC DIRECTORの役割を自分たちで行い、東京らしいオリジナルなイベントをつくりあげようという気持ちを強く持つようになった。
「2年目から少しずつ自分たちでもブッキングをするようになっていましたが、この年(2006年)には、100パーセント自分たちでブッキングするようにしました。『中身は全部NEPが作ることにこだわろう。』仲間ともそのように話しました。『東京JAZZ』というコンテンツを、NEPが、自分たちの手で作っていくんだという意気込みです。」(八島)
自分たちでブッキングすることにこだわる理由を八島はこう語る。「私には、すごく尊敬しているNHKのプロデューサーがいるんです。その方が東京ジャズが始まったころに、私に教えてくれたんです。『ヤッシー(八島の愛称)、とにかくアーティストというのは、自分で話をして、自分で説得して、ブッキングしなきゃだめだ、そうしないと、こちらの気持ちも伝わらないし、絶対いいものはできない!』って。だから私もいつかチャンスが巡ってきたら、絶対に自分でブッキングしようと思っていたんです。それが2006年だったんですね。」
エージェントやマネージメントに恐る恐る連絡をとりはじめるとともに、百戦錬磨のプロモーターやジャズクラブの敏腕ブッキングマネージャーとのせめぎあいの日々。現在のジャズシーンを一緒に盛り上げようという気持ちの中、ときにはライバルになり、ときには連携しあいながら、納得のいくブッキングができるまで明け方まで諸外国と交渉する日々が続いた。

八島たちの「東京JAZZ」のコンセプトは、~国境を越えて、世代を超えて~だ。
「いろいろな人がいろいろな角度から楽しめるジャズフェスを作りたいと思っていました。日豪ジャズオーケストラやキューバのロス・バン・バンなど国際色あふれるアーティストの招へいは、そのひとつです。また、当時90歳に近かったジャズのレジェンド、ハンク・ジョーンズをブッキングする一方、14歳のオースティン・ペラルタをブッキングしました。幅広い世代の音楽を楽しんでいただきたかったのです。すでに世界的なアーティストの仲間入りをし、波に乗る上原ひろみさんも魅力でした。」
しかし、アーティストを自らブッキングするのは、容易ではなかった。
「ジャズ界の重鎮のひとり、チック・コリアのブッキングも試みましたが、マネージメントやエージェントにつてがなく、連絡する方法すらわかりませんでした。そこで私たちは、彼の公式ホームページからメールを出して出演依頼をしたんです。一般の方の問い合わせと同じ方法です。ですからほとんど期待していなかったんですが、まもなくなんと返事が来たんです。『興味があるので交渉しよう』と。もうビックリでした! 『東京JAZZ』という名前が、少しずつアーティストの間にも広がりつつあるのを感じました。」

東京JAZZ2006年、チック・コリア。上原ひろみとも共演。
東京JAZZ2006年、世界的ジャズ・ピアニスト、ハンク・ジョーンズも八島たちの粘り強い交渉で出演。渡辺貞夫とのスペシャルセッションも行った。

丸の内に移った「東京JAZZ」は大成功を収めた。チック・コリアと上原ひろみの共演は『東京JAZZ』ならではのオリジナリティあふれるステージとなり、観客は酔いしれた。また、東京国際フォーラムのホールだけでなく、丸の内の周辺地域でも関連イベントが多数開催された。東京国際フォーラム地上広場では、8月初旬から「ネオ屋台村」とコラボレーションし、10回におよぶ無料ライブ(飲食費別)が行われた。
八島たちが目指した世代を超えて楽しめる東京ならではのフェス、そして“音楽があふれる街”が、少しずつ形になってきた。

さらなるステップアップを目指して

2015年4月24日、「第14回東京JAZZ」の実施が発表された。ハービー・ハンコック&ウェイン・ショーター、フォープレイ、ボブ・ジェームス & 東京フィルハーモニー交響楽団、スティーヴ・ガッド・バンド、エスペランサ・スポルディングなど、世界的に著名なアーティストが名を連ねる。「東京JAZZ」ならではの夢の共演としては、日野皓正とラリー・カールトンのコラボが予定されている。

15年前の「この楽しさを引き継いで、フェスを続けていく」という思いは、「東京JAZZ」として2002年から13回もの華を咲かせ、いまでは「多い時には1日に50通もの問い合わせが世界のアーティストから来る」(八島)という世界的なジャズ・フェスティバルにまでつながった。
東京以外でも、札幌、岩手、福島、名古屋、大阪などで派生イベントが行われ、今年はさらに宮城、富山での開催が予定されている。海外のジャズ・フェスティバルとのコラボレーションも始まり、2010年には「東京JAZZ in上海万博」、2013年にはポーランドの有名なジャズフェス「JAZZTOPAD」に「東京JAZZin ポーランド」として日本人アーティストが参加、2015年にはリトアニアでコラボレーションが予定されている。「東京JAZZ」は「国境を越え」た広がりを持つようになってきた。

新たな広がりを見せ、大きくステップアップする「東京JAZZ」だが、いまでも八島を筆頭に、手づくりでフェスに取り組む姿勢を変えていない。「自分たちが聴きたい、行きたいと思うジャズフェスを皆さんに届けたい。それはあの、ひたちなかの青空の下で強烈に感じた、楽しくて一体感があるフェスです。そんなフェスを作っていきたいというモチベーションにはこだわりたいですね。」
ひたちなかのフェスで、ジャズに魅了された八島たちスタッフ、そして協賛会社や多くの協力者、さらには観客…。多くの人たちが一緒に育ててきた「東京JAZZ」が今後どのように成長していくのか、楽しみにしていただきたい。


第14回東京JAZZは、9月4日から6日まで東京国際フォーラムほかで開催します。
アーティストやチケットの情報は、公式サイトでチェック!
■「東京JAZZ」公式ホームページ東京JAZZ

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八島敦子
Atsuko Yashima
国際事業センター 購入・展開
エグゼクティブ・プロデューサー
神秘の世界に挑む アニメへの情熱 どーもくん世界へ 日常を劇場へ 海外ドラマ大ヒット 珠玉のエンターテインメント ロボットたちの熱き戦い ドラマ列伝 時代の記録 新しいメディアへの挑戦 岩合光昭の世界ネコ歩き iHistoryスペシャル